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命懸けで逃げよう

4月5日、歌手の加川良さんが急性白血病でお亡くなりになった。


いつからからか知らないが父がずっと追いかけていた人。私が生まれる前から今に至るまで何十年とファンをしていた。小さい頃から家や車の中で加川さんの曲が当たり前にかかっていた。母が食器を洗う音や家族の会話の声と同じように、日常の生活音だった。聴けばああ、この曲だと大体は分かる。しかし私は加川さんについてほとんど知らないし歌詞もちゃんと読んだことがない。フォークシンガーで、高田渡さんと同系列の人、というくらいの認識しかなかった。わけあって小学校高学年くらいから父が嫌いだったので父が好きなものも全部嫌いだった。音楽も。


ライブに出かけては毎回色紙に歌詞やサインを書いてもらい、毎回ツーショットを撮って帰って来た。孫が生まれれば孫の名前を色紙に書いてもらっていた。それらは雑多なもので溢れた父の部屋で大事そうに飾られていた。それだけならまだ分かるが、父は加川さんが好きすぎるあまり、いい歳をして髪型や筆跡まで真似ていた。母によると昔かららしい。そもそも容姿端麗な加川さんとは顔立ちがまるで違うし、大きな顔にその髪型は似合わないと家族から批判を浴び続けても何十年その髪型でいた。ライブの物販で買ったいわゆる「オタT」が一張羅だった。家族で出かける時や友達が家に遊びに来る時もそれを着ていたので恥ずかしかった。高校生の時、私が流行に乗って買ってはいいが飽きて放置していたカバンを父が欲しいと言ったのであげたらライブに持って行き、「○○さん、いいカバン持ってるねって褒められた」と意気揚々と帰ってきた。ライブ後はファンの仲間と呑んで夜中まで帰って来なかった。

何もかも理解できなかった。父が喜ぶ姿を観れば見るほど呆れた。



私は出産後、大森靖子さんのライブに行くようになった。なぜもっと早く存在に気が付かなかったのか悔やむほど大森さんが好きだ。自分が置かれた状況的に全部は無理だができる限り大森さんが歌う姿を観たい、追いかけたいと思っている。その理由として大森さんの音楽が好きなのはもちろん、大森さんとほぼ同世代であるというのも大きい。ある知り合いが「小説でも音楽でも好きな人がいたとして、それが過去の人でもいいけれど、今生きていて、しかも自分と同世代だったらこれほど面白いことはない。その人と人生が進んでいく。」と語っていた。山口百恵さんが好きだし、他にも好きな人はいるけれど同世代ではない。つい外側というか遠くから観てしまう。

大森さんとは歩んできた人生は互いに違うかもしれないが同じ時代に生きた。歌詞やMCで感覚的に分かる!と共感することが多いのも世代的なものが多少はあると思う。これは偶然だが息子が一人いるという境遇も似ている。数々の分かる!が重なり、水彩画のぼかしのように自分の色が大森さんのピンク色に溶け込む。大森さんを恐れ多いと思いつつも、ファンとの距離が近いことを喜んでいる。身に着けているものを褒められたら嬉しいし、DMするし、ラジオには交換日記のように何でも投稿してしまう。だからなのか、大森さんが売れてほしい、もっと多くの人に知られてほしいといつも思っているはずなのに、心の奥で仲良かったクラスの友達に置いていかれたような卑屈さが蟠っているのに気付く時がある。


これって父も同じではないか。加川さんと父はほぼ同世代である。父は髪型や筆跡を真似て加川さんになり、溶け込みたかったのかもしれない。父のことは今も好きではないが以前のように憎悪対象ではなくなった。


大森さんのライブに行くようになった今なら少しは理解できるかもしれない、と実家に帰省した時に父が最近もライブに行っているのか母に聞いたら加川さんが白血病で闘病中だと知った。遣る瀬ない気持ちになった。そして病状はどうなのかな、次はいつライブされるのかなと思ってググった日、前日にお亡くなりになったというニュースを見つけた。間に合わなかった。


ドラマ「カルテット」ですずめちゃんが「音楽は戻らないよ、前に進むだけだよ」と言っていた。私は加川さんの音楽をちゃんと聴いたこともなければライブに行ったもなく、父を理由に拒み続け、亡くなった後初めてYoutubeでライブ動画を観た。なんて皮肉な。女性卑下や政治思想的な曲もあり、全てに共感できるわけではないが、「教訓I」という曲の「青くなって尻込みなさい 逃げなさい隠れなさい」という歌詞に大森さんに共通する何かを感じた。でももう歌う姿を観ることはできない。何にせよ、亡くなってからYoutubeの再生回数を伸ばしているような自分が嫌だ。


偉い人でも誰でも人間である限りいつか死を迎える。明日死ぬかもしれないし、高齢まで生きて死ぬかもしれない。大森さんが実験室で若くして亡くなったある方の話になった時、「私は死んだと思ってない。大切な人が死んだ時にそれで終わりにするのでなく、その人が自分の中で生きることで活動につながる」というようなことをおっしゃっていたのが忘れられない。死んでしまったらその人の人生も音楽も先へは進まないが自分の中で駒を進めることはできる。そして自分が死んだ時、誰かの人生に寄生する。それが繰り返される。

何が言いたいか分からなくなってきたが、私は息子に呆れられても自分が好きなものを死ぬまで貫こう。










by fukadaumiko | 2017-04-07 12:40


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